■皮と肉、骨/百姓一揆
年を取っていくと失うものばかりだと思うことが最近増えた。
人生なんて失う事の連続だなんてどっかの偉人か安くて最低で最高なもつ焼き屋でお互いベロベロに酔っ払った時に飲んでる友達が言った言葉かはもう忘れてしまったけど。それは間違いなく事実だ。
思春期に周囲になじめなくて、そんな時に音楽・サブカルチャーは間違いなく救いだった。
だけど歳をとってそれすらもファンタジーでしか無いと気付いてしまう。
当たり前の幸せすら上手く掴めなくて生き辛くて、それでも生きる為になんとか世の中に上手く合わせて生きなければいけなくてすり減ってく。
そんな日々を嘘だと思いたくて、ライヴハウスで爆音を浴びながら酒を飲んだりしてて、その瞬間は確かに幸せだけど、気付いた時には絶望が真後ろで口をでかく空けて自分自身を食い散らかそうとしてる。人生なんてそんな事ばかりだ。
The Restaurantのフロントマン和田侑也を中心に東静岡にて結成された百姓一揆はそんな歳を取って生き辛さが加速する人たちが今一番聴くべきバンドだと僕は個人的に思ってる。
bloodthirsty butchers、eastern youth、COWPERS、NUMBER GIRLといった彼らが影響を受けたバンドで音を語るのは簡単かもしれないけど、彼らの本質はそんな所では無いと思ったりもする。
further platonicからリリースされた百姓一揆の初の正式音源である今作は絶望的なまでに生き辛さばかりを叫ぶ作品だ。
リードトラックである「福沢諭吉」というタイトルの時点でそのバンド名以上のインパクトがあるが、僕たちは紛れもなく福沢諭吉の奴隷であり、奴がいないと生きていけない苦しみの中で日々を生きることを強制されている。
あまりにもザラついた音、分離なんてクソ食らえとばかりに各楽器の音が塊の様に聴き手の胸を殴りつける。
楽曲によってはポストロック的なアプローチもあるが、それでも粗削りなざらつきが一番印象に残る。
メロディはこれでもかと青臭い焦燥感に満ちているが、そこにあるのは郷愁のエモーショナルでは無い。失ってしまった青さや未熟さに対しての鎮魂歌にすら聴こえてしまう。
メンバーがそれぞれキャリアがあって、決して若いバンドでは無いのかもしれないけど、大人になんか解ってたまるものか!って初期衝動が渦巻く。
その初期衝動はソリッドなサウンドにも現れていて、無垢さが粉々にされて破片の様に散らばる美しさと残酷さすらある。
そこには打算なんて何一つない。あるのは「そんなんじゃねえだろ!!」と聴き手や自分自身の喉元に刃を突きつける様なカテゴライズされることを拒んだ衝動だけだ。
3曲入りのEPとコンパクトな作品ではあるが、百姓一揆の持つ本当の青さは十分過ぎるほどに伝わる作品だ。
百姓一揆の音楽は感情に名前やラベルを付けられる事を全力で拒む。だからこそ本当に孤独な音楽なのかもしれない。
でも彼らが心の一番底から叫ぶ衝動に少しでも勝手に共感出来たりするなら、その生き辛さもまだマシになるのかもしれない。その感性はまだ青く純粋なままなのかもしれない。
焦燥と絶望の狭間で綱渡りを強いられ、その先にあるものが見えなくなった時、僕は百姓一揆を聴く。
そこには明確な解答なんて何一つ無いかもしれないけど、だからこそ自分の物差しで答えを見つけたくなる。
信者が気持ちよくなるお言葉を与えて正義の味方(笑)を気取ってるクソみたいなアルファツイッタラーになんて答えを求める必要は何もない。
誰かを啓蒙したくて仕方なくて、ロックスター気取りのクソサブカルバンドのCDなんて叩き割ればいいし、なんなら明日の仕事帰りにディスクユニオンに売り飛ばして、その金で淡麗グリーンラベルを買った方がずっと人生はマシになる。
衆愚主義も集団意識も全部クソ食らえって思い続けて生きていたい。何者にもなれなくても自分だけは肯定してやりたい。
そんな人間の感性を持ってる、牙を隠し持ちながら日々を生きる人に僕は百姓一揆を是非とも聴いて欲しい。
真っ暗闇を目の前にして、それでも道なき道を切り開こうとする人の為のテーマソングを百姓一揆は叫んでいる。