■それでも世界が続くならワンマンツアー2016「再生」(2016年8月28日)@下北沢club Que
そのリリースを記念したワンマンツアーは「再生」と銘打たれ、それは昨年メジャーからリタイアしながらも再び前線に帰って来た事、極限のリアルを生々しく再生する事、新たなる存在として生まれ変わること、色々な意味を想起させる。
昨年からそれせかを知り、自分の中の価値観や感性を全て木っ端微塵にされる程の衝撃を受けた身として、彼らのライブは一度目撃しなければならないと思い、今回は足を運ばせて頂いた。
オープンの17時には会場であるQueに到着していたが、開演の時間まで会場は異様な緊張感に包まれており、敬遠直前には決して狭くないQueがほぼ満員の状態であったが、その緊張感はより高まっていく。これまで数多くのライブに足を運んできたつもりではいたが、この日程ライブを観るという行為に恐怖を感じた日は無い。音源でさえ心をズタズタに切り裂くそれせかの音楽に生で触れたら生きて帰って来れないんじゃないか?大袈裟かもしれないけど、そんな事すら考えてしまった。
そして開演予定の18時オンタイム、僕のこれまでの価値観を全て破壊するライブが始まった。
SEに合わせて静かに登場するメンバー4人、フロアは拍手で迎え入れるが、開演前以上に緊迫した空気が包み込む。篠塚氏と菅澤氏の二人の静謐なギターが空気を変えていく中で始まった「傾斜」。極限まで音数は少なく、明確な輪郭を持たないリヴァーブギターの濃霧、照明も足元の白熱電球のみという削ぎ落とされたも良い所な物で視覚的情報もシャットアウトされている。
そんな中でこの世の希死念慮の全てを憑依させたかの様な篠塚氏のボーカル、美しく漂う音の粒子が徐々に自らの首に紐を括りつけていく様な残虐なノイズギターと変貌。アプローチ自体音源と全く変わらないのに、音源の更に上を行く密室的空気の中の死の匂い。冗談に聞こえるかもしれないけど、頭のこの一曲だけで体の震えが止まらなくなってしまい、涙を堪えきれなくなってしまって、何度も何度も声を上げて叫びたくなるのを必死で堪えていた…
続く「冷凍保存」と「リサイクル」こそ少しはアッパーな曲ではあるが、重低音とノイズギターの精神的煉獄は続く。リズム隊のアプローチは何らトリッキーな事をしてないのだけど、何も足さない、何も引かないからこそ安定感のあるプレイに徹底しており、そんな地盤に菅澤氏の多彩な音階を多彩な音色で彩っている筈なのに、それらの全てが寒色系の色や黒めいた音として聞こえてくるギターワーク、そしてギターとボーカル、いや自分自身から放つ事が出来る物全てに全感情を怨念の様に込める篠塚氏。
バンドとしてのアンサンブルはこれ以上無く完成されているのに、気を抜いたその瞬間に爆散してしまう恐怖。手を上げる事も頭を振る事も出来ずに、目の前で繰り広げられているリアルを目を背けたくなるのに、背ける事が出来ない。
バンドの中でも非常にポップな側面が出ている「響かない部屋」、「参加賞」、「水色の反撃」といった楽曲もプレイされたが、そんな楽曲ですら序盤からの圧迫感は全く変わらずに演奏してしまえるのがこのバンドの凄い所だ。
この日は今後リリースされるだろう新曲も含めて新旧の楽曲を満遍なくプレイしていたけど、どの楽曲も全くブレずに誰もが目を覆いたくなる痛みだったり隠してしまいたい現実を鳴らしていた。アッパーな楽曲もミドルテンポのスロウな楽曲も全て「それでも世界が続くなら」というバンドのリアルとして何の飾り気も無く鳴らされていただけに過ぎない。
本当にたったそれだけの筈なんだけど、何でノイズギターが泣き叫ぶ度に、篠塚氏が叫ぶ度に、涙が溢れてしまうのだろう。本編ではMCらしいMCなんて終盤の篠塚氏の「あと3曲っ!」と最後の「ありがとっ!」位だけで、チューニング以外はほぼノンストップで生き急ぐ様にライブは進んでいった。
篠塚氏は曲の歌詞も何度も変えていたり、最早マイクの前にいないのに何度も声にならない叫びを上げたり、指揮者の如くジャズマスターを振り下ろした瞬間にバンドサウンドを轟音の坩堝に変貌させたりと、安定感あるプレイで支える他のメンバー3人に比べて明らかに切迫感と破滅願望と救いを求めるかの様な感情をただ歌と演奏で表現する。その事実こそがカテゴライズさせない、誰にも何も言わせないリアルを表現しているんだろう。
個人的なハイライトはノイズギターの洪水から始まった「スローダウン」だろう。「わかるかい 死ぬよりも辛いことなんて本当は この世界にはいくらでも あるってことを」という全てを暴いてしまっている歌詞のラインが凄まじいそれせかの初期からの看板曲であるが、この一曲をいざライブで体感した瞬間に、何度も何度も泣いたり震えたりしながら観ていた今回のライブで一番感情という感情が決壊を起こしてしまっていた。
暗いだとか重いだとかって言葉で片付けてしまえば簡単なのかもしれないけど、そんな事で片付ける事が出来ない様な事ばかりが溢れているという事実、たったそれだけの事を「それだけの事」として片付けさせてくれない。この瞬間だけは立っている事すら出来なくなってしまいそうだった。
ほぼノンストップで窒息感と緊迫感溢れるライブを繰り広げていたが、ラストは最新シングルから「狐と葡萄」で本編は終了。ラストにこの楽曲で締めくくってくれたのは個人的に一気に救われた気がする。照明も白熱電球だけのままであり、決して何らかの演出があった訳でも無いけど、この一曲がプレイされた瞬間に自分の中にある様々な感情や困惑や言葉に出来ない事全てに一つの答えを貰えた気がした。
アンコールは一転して非常に和やかな空気で2曲プレイされたが、最後の最後の一曲の前に篠塚氏が少し口下手な感じでこの日来ていたお客さんに何度も感謝を述べ(「うちらそんなバンドじゃ無いけど、ライブ観て楽しかったと思って貰えたら。」とか「みんな立っているの辛いだろうけど、俺も頑張って立っているから。」なんて非常に篠塚氏らしい言葉だった)、菅澤氏から年末に再びワンマンツアーを行う事が告知されたり、琢磨氏が菅澤氏のギターに合わせて謎の怪談話をしたりと本編でのあの異様な空気を放っていたバンドとは思えない位のほっこりMCタイムでしたが(個人的に割礼のライブでの松橋氏の物販紹介MCコーナー並に落差を感じた)、最後の最後は「弱者の行進」でこの日のワンマンを再生完了させた。
約二時間に渡ってライブは行われたが、ライブ終演後は僕自身異常に体力と精神力を持って行かれて、フラフラになってしまい、その状態は帰宅するまで続いたが、当の篠塚氏もライブ終盤はフラフラになりながらそれでも二本の足を地に付けて渾身の表現をこの日来ていた人に向けて放っていた。
もしかしたらこの日目撃した物はライブって言葉じゃ片付ける事の出来ない、正真正銘の闘いだったのかもしれない。ライブが終わって数日経った今このレポを記しているが、今でもこの日のライブで体感した事は上手く纏まってはくれていない。
でもそんな簡単にそこら辺にある言葉で片付けさせてくれない音楽を「それでも世界が続くなら」というバンドは鳴らしているんだとも思う。そこら辺にあるカテゴライズされた反抗を歌っている音楽なんかよりもずっと本質的な意味でパンクでありハードコアであると僕は思う。
この日のライブを観て一番感じたのは、僕が世界で一番敬愛するbloodthirsty butchersの吉村秀樹という男が鳴らしていた「血を吐き続けても叫ぶ表現」という物をこのバンドは鳴らしていたという事実。それが僕がこのバンドに出会い惹かれた必然なんじゃないかとすら今は思う。
長々と纏まらない事を綴ったが、僕は「それでも世界が続くなら」というバンドに一人でも多くの人に触れて欲しい気持ちで一杯だ。決して肌触りの良い表現をしてるとは言えないし、人によっては不快感すら覚えるバンドだとすら思う。だけど、本物の表現とはいつの時代だってそんな物であった。だからこそ僕はこれからもこのバンドを追いかけ続ける。